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前回のブログの小鳥さんのお名前を教えていただきました。ツグミとヒヨドリではないかということで グーグルで見てみると そう、そう、これ、と同じ絵を見て喜びました。 渡り鳥だそうで あの時は おなか一杯 赤い実を食べていたのですね。 そのうち我が家の赤い実が全部なくなって ぽろぽろ落ちていた実もきれいに食べつくし、我が家にはもう来なくなりました でも シベリアへの旅に もう飛び立ったのかもしれません。
まさしく 立つ鳥跡を濁さず ですね お庭はとってもきれいです 昨今のニュースは またもや暗いニュースばかりです 小鳥さんを見ていると 小鳥さんの方が人間より よほど 優れていると思います 地球上の生命存続への知恵 鳥同士が諍いをしません。 譲り合ってエサも分け合っています。 なんで 人間は欲があるのでしょうかね。 なんで 人間は利や権力に傾くのでしょうかね 少し梅の開花がすすみ やってくる鳥が 変わりました ウグイスと梅だと 花札のような景観です。 今の私は 庭の梅をみるのが 一番心が和みます 私は 日本がバブルで好景気の時はすでにドイツに暮らしていました。 DAADというドイツの奨学金生だったから 東西ドイツの歴史をしっかり学ばされました。 ドイツの立場を理解させられましたし 当時の東欧への旅行、例えば コンクールを受けたいと思っても 行動には制限がありました。 そして そのあとの 1985年あたりからの ソビエト人の亡命者、逃亡者;ベルリンの壁の崩壊とドイツの統一;東欧民主革命から そのあとに続く 難民者への援助。 そういうことに 身近にかかわりながら暮らしていました。 だから 今 盛んにニュースにでる画像を見ると その当時の生活がよみがえり とてもとてもとても 落ち込んでしまっています。 一番最初のモスクワから逃げてきたピアニストがレッスン室のドアを叩いたときの音、以前このブログで書いたかもしれないけれど、 その人と学校のそばの喫茶店で紅茶を飲んだ時 彼女はすでにドイツ語が良くできた人でしたが カップに何杯も何杯もお砂糖をスプーンですくい入れ その動作が止まらない時に 「砂糖を見るのは 何年ぶりか」と語ったことや そのあとから続いて 次々やってきた音楽家の その恐ろしい逃走?亡命?の日々と命がけの行動 のお話を聞き 息が詰まったこと。 ザルツブルグのバス停で バスを待っていると そのバス通りに戦車が列をなして走っていくのをはじめてみたときは (私と戦車との間の距離は5mぐらいだっただろうか) あまりの恐怖心に足はすくみ 自分の血が凍ってしまうように震えていました。 あんな田舎のザルツブルグにすら 抱えきれない難民者があふれ 特に中央駅には 近寄れない雰囲気がありました。薄いウグイス色のユニホームを着た赤十字奉仕団は 4つの棒で支えられたヒラヒラ白い布のテントで (日本だと体育祭とかで使うあれ)朝から晩まで活動をしていました。 ザルツブルグはとても治安のよい場所ですが お金の盗難にあわないためにも 最も大事なのことは 狙われないことですから 誰が見ても貧乏で 貧困で 難民者のような身なりをすることでした。 いまだにもって おしゃれをすることとか身なりを綺麗にすることは 私の生活からはなくなりました。 一種の後遺症ですね。 1985年ごろから徐々に起きた東欧、西欧のバランスの崩れは 音楽大学の就職においても変化したようです。 まず公募などなくなり 多くのロシア人が教職に就くようになります。 ポーランド人や チェコ人、ハンガリー人は つきたくてもつけません。ドイツの学校にすらドイツ人の就職は困難になるほど ロシア人優遇があったと思います。 ドイツ統一のためには いろんなことの対価が支払われています。ドイツが天然ガスをロシアから購入し 原発をグリーン政策といって止める形になったのも いろいろ 深いつながりがあると予測します。 実際のソ連崩壊が1991年ですから あの頃のエリツインのそばで控えめに立っていたプーチンもよくテレビで見ていました。 あれから30年たって プーチンのお顔立ちもずいぶん 変わられましたネ。 ロシア共和国、ウクライナ共和国、ベラルーシ共和国 この3国は 同じスラブの血が流れているはずだから 今回の侵略は 30年の間に うんできた膿が 爆発したのでしょうかね。 ところで 私はコソボ紛争で ザルツブルグに難民としてやってきたMちゃんのことをここでお話ししたい。 旧ユーゴスラビアからの幾人の子供たちは 親を離れ ザルツブルグで安全な地で過ごすため集団で疎開してきました。毎日の食事も寝床もあたえられ ザルツブルグの小学校にも入り援助を受けていました。 その中にMちゃんはいて ピアノを習っていたという理由で 放課後にモーツアルテウムにきて ピアノのお勉強をするということになり 私のクラスに配属されました。 このMちゃんが 今までで 一番大変だった生徒だとおもいます。とにかく精神状態が病んでいる。 そのうえ 言葉が通じない。 身振り手振りで親近感を表現したくっても 日本人のやり方は日本人にしか通じないわけで Mちゃんには何も伝わらない。 お教室に入ると Mちゃんは すっごく大声で怒鳴る。 背筋をピンと伸ばして 体をそらすような方向にして叫ぶ。 何を言っているか言葉は全然わからないが すっごく怒鳴る。 それを繰り返す ヒステリー症状なのかな?とか いろいろ考えているうちに わかったことが そういう状態は 悲しみの表現だということらしかった。 日本人なら 悲しい時にはこうべが下がり 下を向き 言葉はつまり 静かになる。涙ぐむ。 でも Mちゃんは全くさかさまで 天に向かって大声でさけび 涙を流すことなく 怒り狂ったように エネルギーは外に向って はき出ていく。 やがて レッスンでは 思う存分 悲しみを表出させ 私はその間 ただおさまるのを待った。 そうこうするうちに ぼちぼちMちゃんは ドイツ語が分かるようになり ピアノの前に座ってくれるようになった。 記憶が怪しいのだが 1997年ごろから2001年ごろに教えたと思う。 それからあとは 彼女は 母国にいるお母さんのもとに 戻っていった。 ずいぶん年月の経ったある日 レッスン室にいた私の携帯に電話が鳴る。 出てみると Mちゃんだった。 彼女はドイツ語を忘れてはいなく 今の生活の様子を一生懸命話し続ける。 ピアノを弾く場所が見つかったこととか 今はベートーベンのソナタを譜読みしているとか いっぱい話してくれた。 私は 電話代が高くなることが気になって 落ち着かない。 元気でね、と言うのが精いっぱいの私なのだが 切るときに彼女は「ありがとう」と言った。 電話だから何か声で返答しなければならないのだが 私は見えもしないのに 何度も頭を上下にうなずき 「さようなら、」とも発せられず 溢れ出る涙ながらに 電源を切った・・・・・。 戦争でもって受ける傷は その人が死ぬまで消すことはできない。 私ですら 全く間接的な戦争体験は ちょっとの時間の日本でのニュースの映像を見るだけで 忘れていたと思い込んでいた映像がよみがえり ただ祈ることしかできない。
by hiroko-miki
| 2022-03-03 17:28
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